2014/09
近代化産業遺産 富岡製糸場君川 治


【産業遺産探訪  2 】




東繭倉庫
 長さ100mの木骨煉瓦作り2階建て倉庫。外観同形の西繭倉庫がある。



操糸工場
 約140mの操糸工場で300人繰りの器械が設置されていた。ガラス窓はランスから輸入された。
「富岡製糸場」は固有名詞で、一般論としては製糸工場であるが、富岡では「繰糸器械」を設置しているので、写真は「繰糸工場」と名付けている。
 これらは富岡製糸場の資料でも使い分けている。



















































[参考資料]
富岡製糸場と絹産業遺産群
  今井幹夫 KKベストセラーズ(2014)
日本のシルクロード
  佐滝剛弘 中央公論社(2007)

旧富岡製糸場
 「富岡製糸場と絹産業遺産群」がユネスコの世界遺産に登録された。産業遺産としては石見銀山に次いで2件目である。登録文化財としては旧富岡製糸場、蚕種農家田島弥平旧宅、養蚕教育を進めた高山社跡、蚕種を保存した荒船風穴の4件だが、目玉は旧富岡製糸場である。
 富岡製糸場は明治5年の創業である。当時、ヨーロッパでは蚕の病気が蔓延して生糸が不足していた。東洋の生糸輸出国であった清国はアヘン戦争と太平天国の乱で国内が混乱しており、生糸の輸出ができなかったので、イギリスとフランスは日本の製糸業に着目した。上州各地を視察して、自ら資本を出して器械製糸工場を設立したいと明治政府に提言したが、政府はこれを拒否して官営製糸工場の設立を決断した。中心となったのは民部省の伊藤博文と渋沢栄一であった。
 当時、我が国の輸出品の第一は生糸であり、次がお茶であった。良質の生糸を生産して外貨を稼ぐことと、全国のモデル工場として技術者を養成することを目的として、横浜に来日していたフランス人生糸検査人ポール・ブリュナに、最新の製糸技術を導入する製糸工場の企画を依頼した。
 ブリュナの監督のもとで、建物の設計は当時横須賀製鉄所建設にあたっていた技術者エドモンド・バスチャンが設計し、製糸機械類はフランスから輸入した。
 建設の指揮を執ったのは渋沢栄一の従兄尾高惇忠で、工場礎石の切り出し、建設木材の調達、煉瓦の製造、瓦の製造などを指揮した。
 建設された製糸場は、長さ約100mの繭の倉庫が2棟、約140mの繰糸工場、機械動力の蒸気エンジンと繭の煮沸用の蒸気ボイラー室、ボイラー用の高さ37mの煙突、鉄製の水槽が設置された。
 建設責任者のブリュナは創業開始後も明治8年まで運用面全般を監督し、技術指導をするフランス人検査人と女工を指導するフランス女性4人が来日した。彼らの住居がブリュナ館、検査人館、女工館として建てられた。ここで働く女工たちは殆んどが遠隔地からの伝習者であったので、彼女達の寄宿舎も2棟建てられている。


富岡製糸場を訪ねる
 2008年の秋の1日、群馬県の旧富岡製糸場を訪ねた。高崎駅から上信電鉄に乗って約40分で上州富岡駅に着く。鄙びた田舎町を想像していたがアーケードの商店街が続く結構な都会である。この近代化遺産を見に行く人たちを目当てに地域名産の下仁田ネギやコンニャクを売る露店が出ている。現在でも交通不便な場所に何故、官営工場が建設されたかといえば、当時、八王子から秩父地方、群馬県高崎地方にかけては我が国有数の養蚕地であったことにある。
 この工場は昭和62年(1987)まで操業しており、創業停止しても維持管理を確りしていた。2005年に片倉工業が建物を富岡市に寄贈し、翌年に土地を富岡市が購入し、現在は富岡市が管理している。
 市のボランティアが約1時間のガイドツアーをしてくれた。正門を入ると正面は東繭倉庫であり、「創業明治5年」のタイルが埋め込まれている。製糸機械工場は一直線に配置されており、今も製糸機械がそのまま残されている。
 ただし、今置いてある機械は片倉工業が使用していたもので、初期の機械は岡谷の蚕糸博物館にあるそうだ。
 ブリュナ館はその後女工たちの学校として活用され、フランス女工住居は食堂、フランス検査人館は事務所として使用された。
 それぞれの建物は特徴ある木骨煉瓦構造で、140年以上経過しても現役である。地震や暴風雨の多い我が国には適した構造であったようだ。製糸機械工場は電灯の無い当時、外光を取り入れるために大きなガラス窓が並んでいる。


シルクカントリー
 上州は養蚕農家が多いだけでなく、上流には蚕を作る蚕種業があり、下流には桐生の絹織物工業がある。今回世界遺産に選定された田島弥平住居は蚕種農家であり、高山社は養蚕農家であると共に養蚕技術を展開した教育機関であった。
 富岡製糸場の繭倉庫が非常に大きい理由は、1年分の繭を保存する必要があったからだ。一方、蚕種を冷蔵保存して必要な時に孵化させて使用できるようにしたのが荒船風穴である。製糸関連技術が開発される中で、上州では富岡製糸以外の製糸器械工場はできなかった。
 養蚕農家としては昔から座繰り製糸が兼業として定着していた。これらの家内工業製品の品質安定のために組合製糸が組織された。碓氷社は現在も続いている。
 シルクの世界遺産としてはフランスのリヨン歴史地区(ヨーロッパの絹織物の中心)、スペインのバレンシア(絹の商品取引所)、イタリアのカゼルタの王宮と庭園がある。世界遺産の繊維産業遺産はイギリスなど4ヶ所ある。


富岡製糸の全国展開
 ところで富岡製糸場は全国の模範工場になったのだろうか。
 北海道・長野県・石川県は富岡式器械製糸工場を設立して女工を富岡で伝習させており、民間でも100人繰りの器械製糸工場は山形・宮城・長野・石川・岐阜に設立されている。
 少し規模の小さな器械製糸会社は全国に展開されている。女工の伝習期間は3年だが、短期間の伝習で帰郷させて地元の製糸場で仕事をさせるケースが多い。埼玉県は明治5年から19年までに235人、長野県は明治5年から22年までに337人を富岡に派遣して伝習を受けさせている。
 このように富岡には全国各地から女工が伝習に派遣されており、官営富岡製糸場は模範工場としての役割を立派に果たしたと云えるだろう。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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